卓話概要

2020年11月17日(第1743回)
東京西南RC
田口 淳子会員

ドキュメンタリー『ミッドウェー海戦』制作体験から(会員卓話)

★日米航空母艦の探索プロジェクト
 私は、かつて、「米ナショナル・ジェオグラフィック協会」(以後、「協会」)や「ディスカバリー・チャンネル」のドキュメンタリー・フィルムの制作に携わりましたが、最も貴重な経験が「ミッドウェー海戦」の制作でした。
 「協会」は、ミッドウェーで戦った日米の退役軍人が生存している間に、「タイタニック号」を発見した海洋科学者ロバート・バラード博士に日米の5隻の航空母艦、即ち、「ヨークタウン」、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」の探索、並びに日米の退役軍人を引き合わせる企画を立て、準備を開始しました。しかし地表の三分の一を占め、深度が5千~1万mもある太平洋で、300m足らずの母艦を探索するのは至難の業で、プロジェクト実施に要する高度の海洋科学技術や資金の調達に3年余りかかりました。

★日本の退役パイロットが参加
 1996年に「協会」から最初に依頼されたのはリサーチで、当時、日本に生存が確認された39名の退役軍人への取材でした。私は取材に応じて下さった20名に対面や電話で詳細な聞き取り調査を行いました。体験談は興味深い話ばかりで、中でも、生死の境でとった退役パイロットの機転や行動に深い感銘を覚えました。
 2年後、「協会」からプロジェクト立ち上げの通知を受け、既に他の仕事に就いていた私は2週間の休暇を頂き、アソシエート・プロデューサーとして参加しました。手始めは退役軍人2名の人選で、体験談が興味深く、2週間の洋上生活に耐えられ、ご家族の理解が得られるという基準から、大分県の赤松勇二氏と千葉県の吉野治男氏に参加をお願い致しました。両名共に「加賀」の索敵パイロットで、ミッドウェーの前に支那事変や真珠湾攻撃に参加し、後には硫黄島や沖縄に送られたにも拘わらず生き抜いた、かつての勇猛な戦士でした。
 1998年春、プロジェクトの参加者一同、即ち、バラード博士一行、米海軍、MIT、ハワイ大学、ドキュメンタリー・月刊誌制作者、日米退役軍人各2名、米メディア等、総勢約80名がハワイに集合し、使用料が一日5百万円という探索船「レイニー号」に乗船しました。私は、助言に沿って、乗船直後に水平線を3時間ほど見つめたことが功を奏し、太平洋の荒波に揺れたにも拘わらず、一度も船酔いをしませんでした。

★期待と失望のはざ間で
 探索に先だって、ハワイ防衛の為に米海軍基地のあったミッドウェー環礁「サンド島」を訪ね(基地は1996年に閉鎖)、海岸を談笑しながら散策する日米退役軍人を撮影しました。
 広大な海で母艦を探索するにあたって、博士は歴史的記録や衛星リサーチに基づいて、各母艦が沈んでいると想定される探索スポットを割り出されていました。
 最初に「ヨークタウン」の探索から開始しました。この母艦は、日本の3隻の母艦が撃沈された後、「飛龍」が発射した2発の魚雷で撃沈したもので、音波探知機ソナーを海に沈め、極めて遅い速度で15km×35kmの探索スポットを縦、横、斜めと、しらみつぶしに探しました。ソナーの反射音がモニターに表示され、博士は海図に航海の軌跡を印し、図は次第に蜘蛛の巣のような線で覆われました。
 数日後、モニターに長さ約200m、高さ13mの物体が現れ、博士は、海底6kmまで到達可能な重量7トンの無人潜水艇を8時間かけて海底に降下しました。しかし海底から1,500mで、ケーブルにひびが入り、ライトやカメラが故障、探索を中止し、6時間かけて引き上げました。米海軍による精密機器やケーブルの修理には24時間を要し、再度降下したものの、またもや、海底からわずか300mで油圧システムが故障、以後、一同の期待と失望の中、潜水艇の降下と修理という作業が、日々、繰り返されました。
 探索期間は2週間と限られており、次は、ミッドウェー北西300kmに沈んでいると思われる日本空母の探索スポットに向かいました。
 ここでも「ヨークタウン」探索と同様の活動が行われ、2つの大きな物体発見に、一同、息詰まる思いでモニターを凝視しましたが、結局、火山岩だったことが分かり、全く成果が得られないのではないかという絶望感が漂いました。博士は赤松氏と吉野氏に探索活動を諦めざるを得ない事情をご説明、深く謝罪をされました。そして海で眠る3千余名の霊に献花をし、お神酒を流し、吉野氏が心に響く祭文を読まれて死者を弔い、後ろ髪を引かれる思いで、再度「ヨークタウン」探索へ向かいました。

★「ヨークタウン」の発見!
 探索期間がほぼ終了し、一同が失望感に苛まれていた時、奇跡が起こりました。モニターに海底5,045mから大きな泥の塊が現れたのです。博士は、タイタニック発見時も、最初に現れたのが泥の塊だったことから歓声を上げられました。やがて次第に艦橋から艦尾まで、全長245mの巨体が画面に現れ、「ヨークタウン発見」のニュースが世界を駆け巡りました。

★歴史を記録することの大切さ
 博士が同じ手法で日米の母艦を探索されたにも拘わらず明暗が分かれた一因として、米国では歴史的記録が詳細に残され、撃沈地点がほぼ正確に推定可能だった反面、日本では記録が杜撰だった可能性が考えられます。
 今や、日本の総人口の83%が戦後生まれ、その内の4分の1が平成生まれで占められ、日本が米国と戦ったことさえ知らない若者が増えています。しかし歴史は様々な教訓を残しており、歴史から学ぶという意味は大きく、「協会」が実行したプロジェクトは非常に有意義だったと思います。