卓話概要

2021年08月03日(第1760回)
津田塾大学教授
大類久恵氏

津田梅子の生涯と女子高等教育

★開拓使派遣女子留学生として
 津田梅子は、お札の肖像になるということで、いま注目が集まっています。梅子は幕末から昭和まで、波乱万丈の人生を送った女性です。
 梅子は、生涯に2度留学をしています。最初は1871年、7歳のときで、日本初の「開拓使派遣女子留学生」の5名(7歳~17歳)のうちの1人として、アメリカに留学しました。奨学金を受け、17歳で高校を卒業するまで10年間、アメリカに滞在しました。
 当時アメリカは南北戦争後の南部再建期で、梅子はジョージタウンのランマン夫妻のもとでホームステイをしました。
 梅子は帰国後、再適応が困難な時期がありました。それは7歳から10年間、アメリカでの生活が続いたので、ほとんど英語が母語になっていたからです。日本に帰って来たときは、母親と会話をするのも難しいという状況でした。このように、ジョージタウンでの長い生活は、梅子に「特別な/特異な体験」として影響を与えたのでした。

★ブリンマー大学で2度目の留学を
 帰国後、梅子が感じたいちばん大きな問題は、英語が堪能で、しかるべき学力を備えていたにもかかわらず、日本では女性の働く場がなかったことでした。
 ようやく華族女学校の教師の職を得たのですが、女学校自体は、女性に高度な学問を与えて社会に送り出すような場ではありませんでした。そういう日本の状況に不満を持っていた梅子は、自身もさらに高等教育を受けるべく、24歳のとき、フィラデルフィアにあるブリンマー大学に3年間、2度目となる留学をしました。
 ブリンマー大学は1885年にできたばかりの女子大学で、アメリカでもまだ珍しかった、女性が男性と同様に学問をする場としての大学でした。梅子はその第4期生で、高等教育第一世代でした。
 ここを卒業したアメリカ人の女性たちは、19世紀から20世紀の転換期に、さまざまな場で活躍していきます。政治の世界に入った人もいれば、学問の世界に残った人もいる、教育者になった人もいるし、あるいは社会福祉に携わった人もいました。
 梅子がのちに「女子英学塾」を開校したというのも、高等教育第一世代のアメリカの女性たちが行った活動を、同じように日本で行った、という視点も可能ではないかと思います。
 梅子は大学では生物学専攻だったのですが、研究者ではなく教育者になるという決意を固めます。留学を1年延ばした3年目には、アメリカの師範学校の授業も取って帰国します。
 この間、梅子は日本女性のための「ジャパニーズ・スカラシップ」を作っています。この奨学金によって、のちに25名の日本の女性がアメリカに留学しました。自分が教育を受けたことで終わるのではなく、後進の道を作ったということも重要だと思います。

★「女子英学塾」を開校
 帰国後、梅子は華族女学校に戻り、女子高等師範学校教授を兼任したりしますが、最終的に1900(明治33)年、「女子英学塾」を開校します。
 この背景にあった梅子の思いとして、2つの点を強調したいと思います。
 1つは、日本の女性の地位が、アメリカの女性と比べて非常に低いことに気づき、それを何とかしたいと思っていた。
 もう1つは、国費留学生として10年間、十分な奨学金を与えられて勉強することができたことに対し、強い責務を持っていた。
 これらに応えるために自分ができることは、日本の女性に高等教育を与えることだ、という夢と理想を持っていたのでした。
 1900年に開校した女子英学塾は、女性の英語教員を育てる学校でした。同じ年に、女性の高等教育機関が他に2つできています。東京女子医科大学の前身である東京女医学校と、女子美術大学の前身である女子美術学校です。いずれも、女性が専門家としての技術を身につけ、社会に活かすための学校でした。

★津田梅子を支えた日米女性の連帯
 津田梅子の活動は、彼女一人で行ったわけではなく、それを陰になり日向になって支えた、日米の女性の連帯がありました。
 大山捨松と瓜生繁子は、最初に留学した5名のうちの2人です。捨松は梅子より4つ年上で、もともとは捨松のほうが学校を開きたいと思っていたのですが、大山巌夫人となった後は、自分の夢を引き継ぐものとして、梅子をさまざまな形でバックアップしました。
 繁子はピアノ専攻で、帰国後は今の東京藝大の先生になります。女子英学塾ができてからは、塾の社員となって貢献しました。
 アリス・ベーコンは、捨松のホストシスターでした。彼女も教育に非常に興味を持っていたので、女子英学塾ができたときに招聘されて、塾のために尽力しました。
 アンナ・ハーツホーンも、戦争が始まる直前の1940年まで長く英学塾で教えた女性です。関東大震災で校舎が焼失したときは、すぐにアメリカで校舎再建のための募金活動を行って力になりました。