卓話概要

2025年10月07日(第1908回)
川・街道から見たまち研究所代表 元NTT西日本取締役名古屋支店長
笹倉 信行氏

川・街道から見た赤坂周辺

★37年間、趣味を継続
 私は「川・街道から見たまち」の研究を40歳のときにスタートしました。現在77歳ですから、この間37年、同じ趣味をずっと続けていることになります。
 自転車に乗ってあちこちに行き、川や街道を調べてきました。街道については、江戸時代の街道だけでなく、その前の「鎌倉街道」や、律令制時代の「官道」なども調べました。

★汐留川
 四谷3丁目の駅を降りて、70~80m東へ行くと、急に道が下っていきます。円通寺坂という坂ですが、それが「汐留川」の水源地です。
 高台のほうには、江戸時代に「牛頭天王」と呼ばれた須賀神社が今も残っています。
 近くにある「若葉公園」には、いまだに湧き水があります。この川が「鮫ヶ橋谷町」をつくり、川には「鮫ヶ橋」という橋が架かっていました。今も赤坂御用地の通行門は「鮫ヶ橋門」となっています。
 赤坂御用地の中に池があるのは、しばしば園遊会等々で出てきますが、ここにも汐留川の流れがいくつもあるようです。残念ながら自転車で中に入れませんので、はっきり地図に描くことができませんが、ここに川が流れ込んでいて、その出先が「弁慶濠」に当たります。そして弁慶濠から「溜池」方向に行きます。

★溜池の造成
 「溜池」が造られたのは1606年です。溜池は紀伊和歌山藩の浅野幸長が、家康に進言して築造されました。その目的は、江戸城を防衛するためと、もう一つは江戸城南西エリアの上水源を確保するためでした。溜池の様子は安藤広重の浮世絵にも描かれており、「どんどん」「葵坂」「榎坂」「赤坂桐畑」などといった、ゆかりの名前が残されています。
 2代将軍秀忠の時代に溜池に非常に手を入れて、蓮の花をたくさん咲かせました。今の不忍池よりはるかに大きい池ができ、そこが行楽の場所になりました。
 しかし飲み水としてはだんだん不向きになってきて、明治になって石垣を低くした途端に細流となりその後乾いた土地になっていきました。今は「溜池山王」の名前だけが残っています。

★伝馬役と四谷・赤坂の発展
 関ヶ原の戦いに勝った家康は、街道を整備し、「伝馬役」というのを置きます。「大伝馬」「南伝馬」はメインの街道で「宿継(しゅくつぎ)」を行う人たち、「小伝馬」は江戸府内でそれを行う人たちです。1606年に「大伝馬町」「南伝馬町」「小伝馬町」ができました。
 1638年には、「四谷伝馬町」ができ、そこには甲州街道の伝馬役が置かれました。同年、「赤坂伝馬町」ができ、ここには矢倉沢往還の伝馬役が置かれました。

★千鳥ヶ淵川と代官町
 「千鳥ヶ淵」というのは、今の半蔵門から田安門に至るまでの全体を指します。ちょうど鳥が羽を伸ばしたような形に見えることから、その名前があります。現在はここに「代官町通り」が造られ、その南側は「半蔵濠」に変わっています。江戸城を造る際に堰き止めた所が、高速道路の工事をしたときに突然現れました。
 「代官町」というのは、江戸時代の初めに代官頭や関東総奉行の人たちがたくさん住んでいた場所です。

★官道(古代)と鎌倉街道(中世)の存在
 「官道」というのは、律令制の下造られた道です。東京国立近代美術館に突然、当時の官道沿いに置かれた駅の存在を示すような物が出土しました。
 また、このニューオータニのすぐそばで、「喰違見附(くいちがいみつけ)」という遺跡があります。これは中世以前に、ここに大きな道があった証拠ですし、以上の事柄を踏まえると奈良時代に造られた官道がその後江戸時代の初めまで鎌倉街道として利用されていたと思われます。

★紀尾井町の名前の由来
 紀尾井町は、尾張の徳川家、紀州の徳川家、井伊家が、その名の由来です。
 1632年、熊本藩の加藤忠広は、父・清正の没後に改易となりました。彦根藩の井伊直政の次男・直孝は、その上屋敷(外桜田邸)と下屋敷(麹町邸)を拝領します。また1640年には、千駄ヶ谷邸を家光より拝領します。
 井伊家上屋敷(外桜田邸)2万坪は、現在、憲政記念館と国会前庭に、井伊家中屋敷(麹町邸)1万4000坪の日本庭園は、ホテルニューオータニに、井伊家下屋敷(千駄ヶ谷邸)17万5000坪は、明治神宮となっています。
 尾張徳川家は家光が初めて子を持った1637年に結婚相手とされた跡取り息子に、紀州徳川家は1657年の明暦の大火後に麹町邸を拝領しました。

 皆様もこの近くを歩かれるときに、お手元の資料をご覧になりながら、過去を振り返っていただければ幸いです。