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★石原莞爾、阿南惟幾と同期
私の祖父・樋口季一郎は、1888年8月20日、淡路島の阿万村(現在は南あわじ市)に、回船業・奥濱久八の長男として生まれました。三原高等小学校、丹波篠山鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校、東京の中央幼年学校を経て、第一師団歩兵第一連隊配属、陸軍士官学校入学、そのとき叔父・樋口勇次の養子となり、樋口季一郎となりました。
1909年、陸軍士官学校卒業(21期)、1915年、陸軍大学入学、同期に石原莞爾、阿南惟幾がいました。
★日本の天皇こそメシア
1919年に陸軍大学校を卒業し、ちょうど日本のシベリア出兵のときでしたが、ウラジオストックに特務機関員として派遣されます。このとき偶然ユダヤ人の家に下宿して、そこでさまざまなユダヤ問題を実地で学びました。
1920年、ハバロフスク特務機関長として派遣されるも、日本軍撤退で孤立。
1925~28年、ポーランド公使館付武官として、社交をしながら世界の情報を入手。またウクライナほかを視察。グルジアのチフリスで、ユダヤ人の老人に「ユダヤ人を助けてくれるのは日本人しかいない」「日本の天皇こそメシアだ」と言われ、強い印象を受けます。
1937年、参謀本部付としてベルリンに出張、各地でナチス・ドイツを視察します。当時のベルリン駐在武官は大島浩武官で、その後任となるべく待機中でした。ところが盧溝橋事件が勃発し本国に召還されます。このとき、盧溝橋事件が起きなければ、大島武官の後任となって、もしも大使になっていたら、戦後はA級戦犯になっていたかもしれません。
★日本はユダヤ人を差別しない
1937年8月、ハルビン特務機関長となります。これはソ連の動向を観察すること、そして満洲国の内面指導が仕事でした。
当時、ソ連の中で迫害を受けていた数千人のユダヤ人が、満洲に逃げ延びていました。1937年12月26・27日、「第1回極東ユダヤ人大会」の開催を許可し、そこで「日本はユダヤ人を差別しない」ということを、日本の代表として発表しました。このニュースは世界中を駆け巡りました。
1938年3月、いわゆる「オトポール事件」といわれる、ユダヤ人難民救済を行います
しかしながら日本は、1936年に日独防共協定を結んだばかりで、非常に難しい判断を迫られます。関東軍参謀長だった東条英機に呼ばれたとき、樋口は「日本は決してドイツの属国ではない。満洲国も日本の属国ではない。したがって満洲国がユダヤ人を助けることを容認して何が悪いのか」と述べると、東条もそれを認めました。
★「臆病軍人」と呼ばれる
1938年8月、東京に呼び戻され、参謀本部第二部長となります。情報部門のトップです。汪兆銘を重慶から脱出させ、ハノイ経由で東京に迎え「日中和平工作」を行いますが、陸軍大勢の反対により失敗。
同年12月、近衛首相が「ユダヤ人対策要綱」を制定し、「日本国として人種差別はしない」ということを、文書で世界に公言します。この実務を行ったのは樋口でした。
1939年のノモンハン事件でも、停戦に向けて努力します。このように樋口は、和平の仕事ばかりやっているということで、「臆病軍人」と呼ばれ、大本営に居られなくなってしまいます。
★自ら北方軍司令官に
その後、金沢第九師団長(中将)を経て、1942年、札幌北部軍司令官。1943年、北方軍司令官、アッツ島玉砕、キスカ島撤退。
北部軍司令官は北海道を防衛するのが任務ですが、樋口は、アッツ島やキスカ島などアリューシャンに置き去りにされた日本軍の兵士を撤退させるために、自ら北方軍司令官になったのです。
1944年、第五方面軍司令官。これは日本の最後の決戦のための布陣です。
★敗れて然るのち戦う
樋口の総括です。「真珠湾攻撃は南方作戦遂行上、左側擁護の一時的意義を持ったが、対米必勝の基礎を築いたものではなかった。あに何をかいわんやである。結局、陸に人無し、海また然りというほかない。我は敗れて然るのち戦うのであった。」
大変な人生でした。祖父は1970年に亡くなりましたが、天皇陛下からもご弔辞をいただきました。
2年前、私はイスラエルに招待されました。祖父は、ユダヤ人を助けたことで、すでに1941年に表彰されていましたが、このたび改めてそのときの証明書を再発行してくれました。
【詳しくは、拙著『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』〈勉誠出版〉をご覧ください】